「否定しない」ということ

プロフィールの通り、幼少期から私はいろいろなところで人との違いを意識させられてきました。
「大人になれない」
「世の中で生きていけない」
「社会では通用しない」
と言われて育ちました。

すでに人生の後半に入って久しく、見た目は大人を通り越して初老の域に入り
言動に対して未熟者扱いされることもなくなりました。
放課後に各小学校巡回で送迎に行くと高確率で先生に間違われます。
毎日スーツネクタイ姿なので校長先生に間違われるようにもなってきました。

そんな私でも、私は大人になれているのだろうか、と今でも思います。
ここで言う「大人」とは、社会でまっとうに働き国民としての義務を果たし、
次の社会を担う子どもの前に出るのにふさわしい存在、ということなのだろうと
なんとなく定義してしまっているようです。
もちろん世の中にはいろいろな生き方の大人がいて、それぞれの日常を過ごしています。
人生経験を重ねてその多様性を十分理解できるようにもなりましたが、
「こうじゃなければまっとうな大人とは呼べない」という価値観が染み込んでいて
時折このような疑問を感じてしまうのだと思います。
自分の場合、それが育ててくれた親の恩、期待に応えることにつながっているからだと思います。

高校を卒業するくらいまで、子どもたちは家庭と学校の狭い世界の中で生きています。
ネットが発達したとはいえ、基本的に未成年は社会から守られているので、
子どもの周りにいる身近な大人から言われた言葉の持つ影響力はきわめて大きいです。
この年代に自らの将来を否定された経験をしてしまうと、その後の人生に負の影響が残るか、
少なくとも迷いは出ると思います。

このような経験を持つ私が心がけているのは「子ども自身を否定しない」ということです。
行動や言動に対して
「そういうことをしてはいけない」「そんなことを言ってはいけない」
とは言いますが、
「それでは大人になれない」
といった、未来を否定する言葉は決して言いません。
大人の自分から見てその子の行く末に懸念があり、心配だったとしても言うべきではありません。
これは本人が自分自身に対して投げかけるものであり、身内他人を問わず別人格を持つ存在から
発せられるべき言葉ではないと考えます。

表面的に切り取ってほしくないのですが、ここで言いたいのは自分の育ちや親の批判ではありません。
このような経験を持つ人間が次の世代にその経験をどう生かすのが良いか、自分の考えを書いています。