「笑い」と「いじり」

小さい頃から「笑われること」「いじられること」が極端なほどに苦手な子どもでした。

70年代の子どもだったので、ザ・ドリフターズのコントは家族で笑いながらよく見ていました。
80年代になって漫才ブームの芸人たちによる楽屋落ちの笑いが主流になりましたが
ドリフの緻密に計算しつくされた「自らをおどける」笑いが変化し、人をいじって笑うという
新しい面白さが人気を得て主流になっていったように思います。
そして令和となった今の時代、安直ないじりで笑いを取ろうとしても不快とみなされ支持される
ことはなくなりました。この点でも良い時代になったと思っています。

「いじり」というのは、お互いに健全な関係性が出来ている間どうしでのみ成り立ちます。
笑われる側が笑った相手を友達・仲間だと思っていなければ「いじり」ではありません。
テレビに出ている芸人たちは当然確固たる人間関係のもと、芸としていじりを演じていたので
見世物として純粋に楽しく見えていたのですが、それを日常で真似する子どもたちは
この大事なポイントがわかっていないため、喜劇のつもりが悲劇を生むことがあります。

私の小中高時代いずれでも経験したことですが、クラスで人気だった「面白い男子」たちは
いじれる相手を常に探していました。だいたいは毎日つるんでいる親しい仲間同士で
いじりあっていたのですが、ネタに尽きると普段ほとんど話すことのない物静かな子たちをも
笑いの材料にしようとしました。
たまにそういう子たちが大きな失敗や目立つようなことをしてしまうと、そのエピソードとその子を
強力に紐づけるようなあだ名を付けたり、授業で指名されて注目を集めた時などに
そのエピソードで野次ってクラスの笑いを取る、ということをしていました。
身体的な暴力はありませんから先生も問題視せず、ひどい先生だと一緒に笑ったりしていたので
私はクラス内で笑われることがないようにと必死で目立たないようにしていました。
今思えばあれはテロ行為でしかなく、気持ちの上では防空頭巾を被って空襲からじっと
耐えていたような感覚でした。

いじろうとした相手はもしかしたら自分と仲良くなりたいから笑いを取ろうとしたのかも知れないと、
大人になった今ある程度は理解できるようになりました。しかし片方がそんな状況では
良い関係ができるはずもありません。大学生になってもいじりに絶えられずサークルを辞めました。
さらに名古屋に来て最初に接したコミュニティには関西出身者が多かったのですが、
当時はそのノリが不快でしかなく本気で傷つき病んでしまいました。
私は冗談が通じない狭量な人間なのだと自分を責めていました。

学童の子どもたちの間でも、いじったつもりが失敗して関係が悪化することはしばしばあります。
今の子どもたちはその点概ね賢いので、不発に終わった笑いをすぐ切り替えたり、
いじってはいけない子も意識しやすいように感じていますが、中にはしつこい子がいます。
昔はそういう子がもてはやされたのですが今の子どもたちは健全な笑いと不快な笑いの違いを
よく理解しているようで、それがわからずしつこい子は逆に疎まれます。
こういうところは時代とともに進化しているのだなと思います。

からかった笑ったのトラブルでは、まず当事者同士が普段から一緒に遊んでいる関係にあるか
どうか、そして言う言われるのバランスを見極めることが大事です。
どちらか片方に苦手意識があり、無理して付き合っている関係は長続きしませんので
じきに長時間一緒に過ごさなくなります。
仲良し同士であっても、ちょっとした「地雷」を踏んでしまえば容易に関係は悪化します。
大人でも同じことです。
日々こうした経験を重ねながら少しずつ相手との距離感をつかんでいく、中にはどうしても
合わない子もいるかも知れませんがそれも自然なことで、自分を相手に合わせてまでして
表面だけの良い関係を作らなければならないなんてことはありません。

とはいえ私は普段送迎に忙しいため子どもたちのいる現場にはあまりいません。
なので指導員たちから伝え聞いて知ることのほうが多いのですが、遠足などである程度長時間
ともに過ごせる日などは、それぞれの関係性をよく観察するようにしています。