「変わってほしい」という思い

50代も半ばになると、日常において付き合う目上の人は少なくなります。
一緒にいて心安らかになれる人、尊敬できる人、よい意味での刺激をもたらせてくれる人、
そういう年長者に出会えたとしたら幸せなことだと思います。
そんな理想的な人でなくても、相手の人格を尊重するという、人としてごくまっとうなことができる人なら十分で、多少トラブルはあったとしても基本的な信頼関係は築けると思います。

残念ながら、幼少期および若年期に私の身近にいた年長者たちは私に対して厳しいことを言う人ばかりで、「こうなってほしい」「このままではダメだ」「変わらなければならない」と思う人に囲まれて長い時を過ごすことになりました。
ちなみにその内容のほとんどは昭和の価値観に基づくもので、今の時代ではそれもひとつの個性、として尊重されるようになったことばかりです。
「俺はお前より長く生きていて人生経験も積んでいるから人間として上だ」というようなことも言われました。
基本的に相手に対する関心が無く、世間体のほうが重要、本当に大切にしなければならないのは誰なのかがわかっていない人ばかりでした。
「あなたのためを思って」というもっともな台詞を付けて繰り出されるその言葉は、発せられた時点で
自分にはっとさせるような気づきをもたらしたことは一度たりともありませんでした。自らの内省の中で深く悩んでいたことをより強く後押しする結果、つまり人から言われることで他者から裏付けされた形になり悲観、絶望しか感じませんでした。
それらの言葉はトラウマとして蓄積されていき、その後の人生で自分の可能性を狭めていくことにつながりました。

当時指摘され続けてきた私の問題点はこの年齢になっても解決していないと思います。
どんな人にも他人から見てこうなったほうが良い、と思えることはあるのでしょうが、それを本人にストレートに指摘したところで、相手が思った通りに変わってくれるなんてことはないのです。

若さと引き換えに、今はそのような人たちのほぼいなくなった日常を手に入れることになりました。
当時いろいろなことを言っていた人の年齢になったのですが、今の若い人たちを見ても自分のほうが優れているなんてまったく思いません。子どもたちを見ていても、この年でここまでのことが言える・できるのかとむしろ驚き感心することばかりです。

数年前から私は、若年期に負った数えきれないほどのトラウマを解消するための努力を少しずつ進めています。自分が若い頃は50代の人なんて世の中を達観でき些細なことで悩むこともなく、円熟という言葉が似合う完成された人間だと思っていましたが全然そんなことはありません。
そのような取り組みを始めたことは結果的に過去いろいろ言ってきた人たちの意向に沿う行動を起こしたことになるのですが内容はまったく別物で、蔑ろにされてきた自分をいかにして取り戻すかに向けての試みです。
過去をいつまでも引きずっているかのようにも見えるので「いい年をして情けない」という声が聞こえてきます。自分に対してそう思えてしまうのもまた“トラウマ体質”となってしまっているからであり、自分が安全だと思える人たちの中でリハビリを積んでいくしかありません。

このコラムをお読みの方には、日々成長を続けるお子さんとの関係に悩む子育て中の保護者の方々も少なくないかと思います。
大人同士の関係においては他者を自分の思うように変えるなんてできないとわかっている人は多いのですが、相手が子どもだとどうしても自分の経験からこうしたほうが良い、と必要以上に言いすぎてしまうことがあるかと思います。
私の子ども時代に比べ、子どもに対する不適切な態度、言葉がけなどについて世の中の意識は大きく進化してそれが常識となりました。本当に今の時代の子どもに生まれたかった、と羨ましく思います。
なので傍目には心配を感じない親御さんばかりなのですが、時にお子さんを諭さなければならないことがあれば、自分がその言葉を発する本質はどこにあるのかをよく意識していただくと良いかと思います。